我々はただ我々が存在している宇宙に存在している。

難民問題大変そうですね。

こんばんは。

ウィーンブタペストに行ったことがある身としては

結構心配してみています。

結局旅行記書きそびれてしまったな……

年度末は忙しくていかん。

さてお久しぶり宇宙論

宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理宇宙論

青木薫

講談社現代新書

以前サイモン・シン

フェルマーの最終定理」や「暗号解読」をレビューしたことがあるが、

それを翻訳したのがこの青木薫

ずっと翻訳メインでやってた青木の初書き下ろしってことで、

これは買わねば!と迷わず購入。

内容としては「人類の宇宙観の変遷」。

人は自分たちを、宇宙の中のどのような立ち位置に置いてきたか。

ということにスポットを当てようとしていた。

サブタイトルが人間原理宇宙論、であることから分かるように、

大きくは宇宙論の変遷をダイジェストで追っていく流れだが、

著者はその宇宙論がどのような思想を元に生まれてきたのか、

あるいは「思想を排除して生まれようとしたか」を特に意識して描いた本のように思う。

例えば、地動説を唱えたコペルニクス

コペルニクス的転換」といえば劇的な価値観の変動で、

「人間は宇宙の中心ではない!特別ではない!」という高らかな宣言と言う見方が一般的だ。

しかし、その実は違うものらしい。

もともと「宇宙の中心」は、澱が沈むように、「悪いものが溜まる場所」だった。

だからコペルニクスのやったことは、

当時の考え方からしてみたら「地球を天上という高貴な場所に上げる」意味を持つ。

あくまで地球は特別だったのだ。

このような感じに、当時の宇宙観の解説が入るのが面白かった。

後から作られたり書き換えられりしたお話も多いんだろうなあ。

宇宙論の変遷を知るための入門書としては良書です。

以下いつもどおり。

宇宙はなぜこのような宇宙なのか。

この問の指す宇宙は、

地球の大気圏外に広がる「宇宙空間」ではなく、

もっと概念的な、私たちの住む世界、という感覚である。

私も同じ問を高校生の時に感じたことがある。

まさに電子を勉強していた辺り。

この世の物質はばらしていくと原子になり、

原子は原子核と電子からなっていて、

この原子の構造はこれこれの実験によって明らかになり、

その原子核は陽子と中性子で、

一方電子の電荷と質量はこれこれの実験によって求められ……

そんな話を物理の授業で聞いた。

なぜ、どのようにが繰り返されていく中で、

物質はどんどんと解体されてゆき、

最小単位は塗り替えられ、

陽子の下のクォークもちらりと先生の口から聞いた。

しかしどうやら、その辺りで今のところは行き止まりらしい。

今のところは、というのがミソだが、

一応世に流れる電流は、電子の電荷が最小単位であるらしかった。

ではその値は、如何様にして導かれるのだろう。

これがこの本の「宇宙はなぜ……」という問だ。

ぶっちゃけると物理定数って原理的にそれ以外の値を取りようが無いのか?という疑問。

「いや、定数ってのはそういうもんでしょ」と言ってはいけない

電子の電荷ってどうやって決まったの?

重力定数ってどっかからどうにかして導ける?っていう疑問を、

現在進行形で物理学者たちが解こうとしている。

定数は、観測の結果でしかない。

「これこれという原理から、電子の電荷は1.602×10^(-19)Cだと導かれ、

 これは観測されている値と一致する」

と言える様な、この宇宙を全て説明することができる原理を、研究者たちは追い求めている。

一方で人間原理とは元々「この宇宙は人間が存在出来るように作られた」という発想だ。

作られた、というに胡散臭く、作り手が必要になり、宗教の香りがしてくる。

だが科学は元々この発想からスタートしていて、

「神の御技を解き明かし理解する」ことから始まっている。

しかし時代が下るにつれて

「なぜ」の答えが「そう作られたからだ」では科学の敗北、との発想が定着し、

人間原理は警戒と拒絶の対象になる。

だが、また最近「人間原理」がそろりと現れるようになってくる。

宇宙単位の「観測選択効果」として。

これを支えるのが「多宇宙理論」である。

要はユニバースはユニ(uni)バースではなく、

唯一絶対の宇宙などではなく、

物理定数は1つどころか無数の値を取り得、

それぞれについてそれぞれ宇宙が存在している。

そして我々はその無数にある宇宙の1つに存在していて、

「我々の宇宙」は当然我々が観測する通りの顔をしている。

沢山の宇宙を含んだそれを何と呼んだら良いのか。

誰か良い名前付けて欲しい……。

もう一個上の呼び名が必要だ……。

とはいえ実際どんな感じになってるのか全然分かってないしなぁ。

この辺りは「隠れていた宇宙」が詳しい。

宇宙論ふ初めて触れたとき、

衝撃を受けたがいやに腑に落ちた記憶がある。

そんなに抵抗無く「ああ、そうか!」という。

今や多宇宙論に馴染みすぎてしまった。

コペルニクスがどういう思想を持っていたかはさておき、

地球は宇宙の中心ではなく、

太陽も宇宙の中心ではなく、

銀河は一つではなく、

銀河団もありふれていて、

宇宙すらぼこぼこと湧いて出ている泡みたいなもの、かもしれない。

これが絶対だと思ったものがまだその先がある。

ひょっとしたら多宇宙を包み込むその上の階層が有ったりして、と考える程度には

何もかもがあまりにありふれている。

しかし人類はとりあえずこの宇宙のこの銀河のこの太陽系のこの地球に存在していて、

その程度には特別だ。

ありふれていて同時に特別。

かと思えば幻影だったり。

なんだか良く分からないけれど、

全く分からないけれど、

そんなものなのだなあと、

訳の分からないことを考える。