台風10号、大きな台風でしたね。被害が小さいといいのですが。
さてあんまこういう自己啓発的な本読まないんですが、よく本屋に平積みしてあるので気になってはいた本を図書館で借りました。
乱読のセレンディピティ 思いがけないことを発見するための読書術
外山滋比古
扶桑社
作者の人は最近亡くなった英文学者の方。1923年生まれで戦争が終わった時に大学生というからまさに激動の時代に生きた人です。略歴曰く「知の巨匠」らしい。そうなのですか……申し訳ないが文学の世界は全くわかんないのだ……
でこの本はそんな巨匠の書いた読書術の本。タイトル通りに乱読を勧める本。一方で「〜〜〜ということがあって私は『〇〇』という本を書いた」っていうパターンが何度か出てくるので、論というよりは作者のエッセイっぽい雰囲気を感じます。
初っ端に「本は買え」って書いてあって笑ってしまいました。すみません図書館で。
文学の先生なので興味が「人文学のセレンディピティとはなにか、どうしたら生まれるのか」というところにあり、そのための方法として乱読を取りあげます。精読ではなく乱読。
分からないならやめてよし。難解なものを-ただ翻訳が悪いだけかもしれない-有難がって最後まで読もうとするべからず。そもそも分かったつもりの本でも自己流の解釈をしているものだから。
ジャンルに囚われるな。失敗を恐れるな。
途中でやめても、部分的に何かが残っていて、それが化学反応を起こすのだ。新しい思考が生まれる。ここに人文学のセレンディピティが起こる。
軽い気持ちで取り組めるのもいい。人はリラックスしている時に「おもしろく」感じるものだ。
このような感じのことが書いてありました。またセレンディピティを得るための、乱読以外の方法(例:散歩はいいぞー)も紹介されていました。
途中ではなんかちょいちょい、読書家とか勉強家の反感を買いそうな文章もあって、要は「知識詰め込んだって考えられるようにならんわよ、むしろ頭回らないよ、思考できないよ。知的メタボだ」などとおっしゃるわけです。
こういう方の水準でいう知的メタボ状態って一般人がたどり着ける領域なんかな……
なんかこう、レベル違う気がしません? アメリカ人のいう××は体に悪い(日本人は体調が悪くなるほど食べられない)みたいな感じがしません?? そうそうならないから私ら程度は安心して読めよ、って受け取るのは自分に甘いでしょうかね。
あるいはこう、「いいもん仕事じゃないしアウトプットとかいらないもん趣味趣味」とへそ曲げてみたくなります。
いや私自身は読書家ってほど読んじゃいないの分かってますけど……(拗
本を読むものは、なぜ読むのか、何を読むべきか、いったい、おもしろい本というのはどういう本かなど、これまで考えられることの少なかった問題がいくつもある。
心ある読者が求められている。つまり、自己責任を持って本を読む人である。
自分で価値判断のできる人。
知的自由人。
第二章は「悪書が良書を駆逐する?」というタイトルなのですが、その章末にこんな文章が書かれています。この章の中で「おもしろい本が悪書、ためになる本が良書」とあり、悪書の台頭は活字文化の危機とまで言いますが、本全体を通じてどう考えても著者は「おもしろい本」が好きです。
おもしろい本とはどういう本か。
自分で考えてみると、ワクワクすると分かっている本は、相変わらず宇宙論だったり、数学のパラドックスネタだったりとサイエンスに偏っています。三つ子の魂百までという感じでして、これ多分小中学生の時から変わってません。
一方で普段馴染みのないジャンルで「おもしろいなあ」と感じたものだと大学のSFがそうで、今では定番化してしまっていますが、フィクションにハマったのってここのジャンルぐらいなんだよなあという。ディストピアものが結構好きなので、シミュレーションに惹かれがちなのだと思います。
逆に未だにいわゆる文学ってダメなんだなあ……物語読めない………あとエッセイもどう受け止めていいか分からん時多い………
上に書いたのはジャンルの話ですが、同一ジャンルでもおもしろい本とつまらない本はあるはず。
さらにいえば、もっとメタ的な視点でジャンルを跨いだ、「おもしろさ」のようなものがあるはず。
こんなことは作家や出版社の人が寝ても覚めても考えていることでしょう。自分が答えを出せるようなものでもないですが、おもしろい本とは何か、何を読むべきなのか、なんてことについて懸命に考えている人がいるんだなあというのは発見でした。
そもそも「乱読のセレンディピティ」自体が私にとって乱読本だなあ。
なるほどこういう感じか。
やっぱり図書館はがんばって使おう。