書くとは、文字とは、読むとは、存在することとは。

 

いきてま。(定型)

 

今年も残すところあと2ヶ月となりました。

そろそろ年末年始の予定を考えねばなりません。

今週寒かったので年末気分が加速しますが

来週はまた暑さ戻るみたいです。

勘弁して欲しいです。

 

さてなんやかんやお久しぶりですねー

 

これはペンです

円城塔

新潮文庫

 

円城塔

最近「文字禍」という本を出して

ルビ芸が編集校正泣かせだと話題になりました。

これは表題の「これはペンです」に加えて

「良い夜を持っている」という話も収録した2本立ての本です。

いずれも短〜中編。

 

「これはペンです」は文字と文章と人間の関係性について、

「良い夜を持っている」は読むことと意識についてのお話。

 

こうして書くと「いつもの」感があるのですが、

なんかだいぶ読みやすい感じがあります。

表向きの落ちも一応あるし。

 

ということでいつもの書き散らしをします。

2本分だから手こずるぞー。

 

●これはペンです

 

叔父は文字だ。文字通り。

 

そんな書き出しから始まるこのお話は、

文章自動生成の研究者である叔父とその姪の手紙のやりとりをベースに

姪視点で語られる叔父探しのお話です。

常識人らしき母は出てきますが、叔父本人は出てきません。

姪にとっては手紙の中の人であり、

ある意味においてまさに叔父は文字なのです。

 

そして当たり前のように手紙は普通の方法で書かれたものではありません。  

磁石に刻まれた文字をピンセットでつまみ出しながら作る。

本人が鎧の中に入った状態で作る。

岩にスプレーで字を書いて、パワーショベルで積み上げながら作る。

DNA配列上に組み込んで作る。

などなど。

書く手法の探索。

「これはペンです」といったところでしょうか。

もちろん本当にそのようにして書かれたものなのかは不明なのですが、

あ、DNAはガチなのですが、

とにかく「私たちはあまりにも簡単に文章が書けると思わないかね?」と問いながら

手紙を、文章を生成し続けます。

姪の方も負けずに、

「これはアルファベットパスタを拾い上げながら書きました。

 使える文字が減っていくのは面白いです」

なんてメールを送るのは愛嬌。

 

姪は叔父を探すといいますか、叔父の書き表し方を模索しています。

叔父の理解の仕方を。

存在のさせ方を。

 

ランダムにキーが切り替わるキーボードからの出力とか。

意味もわからず機械的に行われる翻訳とか。

自動的に文章を綴り続けるプログラムとか。

自動的に手紙を書き続ける機構とか。

 

文字が文章をなし意味を持つこと。

そこから意味を読み取ること。

意思の疎通をするというのはどのようなことなのか。

そういう試みのお話でした。

 

私たち、結構好き勝手に、文字から意味を汲むよね。

 

 

●良い夜を持っている

 

一度見たことは忘れない、忘れられない、超記憶。

すべての記憶が明確にあり褪せないため過去と現在の区別がつかず、

客観的な証拠と記憶はまるでかみ合わず、

まぜこぜになった世界を持つのがこのお話の「父」。

そんな父を死後20年経ってから、理解しようと回想するのが視点主である息子です。

 

たまに「客の顔と名前を何百人と覚えられる受付嬢」のように

驚異的な記憶力を持つ人がTVに出ますが、

「顔のそばに名前を空間になぞってイメージして覚える」といった具合に

みんな風景へ重ね合わせて何かを覚えているというのが共通していました。

それ逆に覚えにくくない…?と鳥頭な私は思うのですが、

記憶術というのは概ねそういうものであるようです。

 

この父も同様ですがその度合いが尋常ではなく、

記憶の街が存在し、

その街をどの角度からでも描いて見せるぐらいには完全に把握し、

見たもの聞いたものは数字までも、

その中にいる人間として記憶するという手法によって記憶を保持しています。

無限の記憶が可能とか。

 

しかもこの父、夢の街などというものを持っていて、「眠らない」。

少なくとも若い時期には、睡眠は夢の街へ行くことで、

意識は途切れず連続していて、

ただどの舞台にいるかが変わるというだけの話です。

 

眠ることも知らなかった父。

そんな父は、母に出会って眠りを知る。

夢の中で母と会話する。

同じ川のそばで。

父視点の世界とはどのようなものなのか、

全くもう想像が不可能なのですが、

規格外な父が懸命に追いかけたのが母(妻)です。

記憶の街ではチラチラと視界をかすめるだけの母を。

出てくるからには、出会わねばならない。

 

ボーイミーツガールと言って良いのかもしれませんね。

この母、ただものじゃない感じがすごくします。

 

話を少し戻しますが、

睡眠という概念を知らなかった父はそれを知ったとき、

正しくはこの世の皆が睡眠という記憶の断絶が起こると知ったとき、

震えながらこういうのです。

 

「誰もが同じ舞台で目覚めると、どうやって確認すれば良いのです」

 

昨日の自分はこの自分か、なんてのはよくある問いですが、

自分視点では「世界が不意にまっ暗闇になり記憶が途切れる状態」で、

しかも誰もがそのような状態であるとき、

世界が確かにこの世界であると誰が保証してくれるのでしょうか。

 

この本の冒頭は

 

目覚めると、今日もわたしだ。

 

から始まります。

考えても見たら不思議なものですが、そこを疑いだすと普通はキリがありません。

目が覚めたが果たして昨日の記憶を持つ私は私だろうか…?なんて、

まあ人生の中で一度ぐらいは遭遇する問いですが、検証方法もない。

当座のところそういうことにしておいて不具合はないので

そういうものだということで進んでいくものと思います。

私はそうでした。

 

しかしこと眠ったところで夢の街を移ろうだけだった父にとっては

起床もまた別の世界へ移動することでしかなかったわけです。

その別々だった世界が実は同じ世界だった。

世界は移ろうものでなく、同じ世界だった。

 

これはもう衝撃でしょう。

多分。

夜が呼ぶ無の世界が宇宙を隔て、それでいて同じ宇宙。

どの世界で何を書いても全て同じもの。

父は震えながらも無を読みましょうと言って、その直後に亡くなります。

無限をクラッシュするのは、いつだってゼロです。

 

わからなくなってきたのでこの辺にします。

いやでも楽しかったです。

やっぱり時々こういう文章読みたくなりますね。

 

なおこの主人公には姉がいて、

その姉には娘がいます。

 

物語は、姪の子守をする主人公のシーンで終わります。

 

っはー!!

これは周回プレイですね分かりました!!

同じものが書き出されることと

同じものが読み出されることに

衝撃を覚える君らは親子だよ全く!!