やわらかな遺伝子 - 「遺伝子は経験のメカニズムなのである」

 布団を一段階冬に近づけました。

 

 

 どうも。ぐっと季節が進みましたね。

 

 さてこちらはかなり時間がかかったのですがなんとか読み通せた本。

 やわらかな遺伝子

 マット・リドレー

 ハヤカワノンフィクション文庫

 

 原題は「Nature via Nurture」で、そのまま訳せば「生まれは育ちを通して」になります。下敷きにあるのは「Nature vs. Nurture」で「生まれか育ちか」という日本語でもお馴染みのフレーズですが英語タイトルの方は韻を踏んでいて小洒落てます。
 しかしそのまま訳してもこの洒落は通じないので、日本語タイトルとしては「やわらかな遺伝子」となっています。本書内に言及はありませんが、おそらく「利己的な遺伝子」を意識したタイトルなんじゃないかなあと思います。

 

 というのはこの本、「遺伝子はさして利己的に振る舞えないよ」という主張をしている本だからです。原題の「生まれは育ちを通して」は本文中に何度も登場し、「育ちは生まれを強化する、が、全てではない」ということをさまざまな研究結果を踏まえながら丁寧に重ねていきます。
 そして「生まれも育ちも(and)」だと「まあそらそうでしょ」と言いたくなるところを一歩踏み込んで「通して(via)」であるとするところが特色です。

 

 ここで前提として、この本のいう「生まれ」は遺伝子を指していて、「育ち」はそれ以外の環境全部を指しています。
 日本語の「生まれ」はある程度文脈依存性がありますが、「生まれか育ちか」と言ったときには母体から出て乳児期ぐらいまでを指しそうな気がします。しかしこの本では遺伝子そのものなので、例えば「子宮内の環境」は「育ち」に分類されます。


 神経細胞がどちらに伸びるかを決めているのはその先端部分の周辺環境(化学物質濃度)に依存する、というスケールから、サルが蛇を怖がるのは蛇を怖がるサルが周りにいるからである、というスケールまで、また双子を使った実験などさまざまな実験や調査が紹介されていて、その一つ一つが「詳しく教えて」と言いたくなる面白い研究です。この研究を読み込んでいるだけでも楽しい。ポイントは遺伝子のスイッチをオンにするのが環境であるということ。
 その上遺伝学だけではなく心理学や社会学も持ち出し、「ヒトが文化を産んだわけ」のようななかなかにチャレンジングな(婉曲表現)論点にまで果敢に挑んでいきます。
 やりすぎじゃないのと思うところがないわけでもないですが、よくやるなあという思いの方が強いです。ともすれば還元論的な傾向の強めな著者です。サイエンスライターだしな。

 

 元々生まれか育ちか論争というのは古今東西定番の話題です。日本語でも「血は争えない」とか「三つ子の魂百まで」とか「トンビが鷹を生む」などという「生まれ」側のフレーズもあれば「氏より育ち」というまさに「育ち」側の慣用句もあります。(まあここでいう氏=家柄はちょっと違うかもしれませんが、遺伝子というものが明らかになったのはここ最近なのでピタッとくることわざはなかなか……)

 この原著が書かれた2003年というのはヒトゲノム計画が完了した直後であり、人間の設計図部分については一通り何が書いてあるかは(その意味・機能は別にして)分かったという時代です。他方「利己的な遺伝子」が1976年なのでそこからはしばらく経っていて、遺伝子と病気、遺伝子と性格傾向の関係などはそれほど簡単なものではない、というのが分かってきている時代でもあります。

 さらに逆説的ではありますが、社会の中での競争を考えた場合、「公平な社会=大体みんなおんなじ条件で育った社会では遺伝子の影響が大きくなる。他方、不公平な条件では家柄が教育などといった環境の影響が大きくなる」ということが起こります。個性を発揮するにも環境の足切りラインが存在するわけです。こうなると輪をかけて「遺伝子Aを持つ人は攻撃性が強く社会的に云々」とは言いがたくなってきます。

 それでもなお生まれか育ちかという話題は人気であり、今に至るまでなお「〇〇の遺伝子」という言い回しが絶えません。最近では「遺伝率」という言葉もだいぶ有名になってきたように見え、「生まれ」が勢力を盛り返しているところでしょうか。

 

 このような流れを見ると、著者の提唱した見方は定着しなかったというのが結論になってしまいますね。まあ仕方ないな、という感じもします。白黒ハッキリしたいのが人間の性……そういう遺伝子があったりして?

 

 などと書いていると「遺伝決定論」に対する批判が目についてしまいますが、著者は「環境決定論」の方も同じくらいの熱量で警戒しています。
 多分、時代的にも遺伝決定論者の方が多くなりがちだから分量的には合わないのですが、「環境決定論者は遺伝決定論者と同じぐらい冷酷だ」とした一節はかなり印象深かったです。
 考えてみれば環境決定論は母親の育児方法を責め、ひどい家庭環境で育った人をさらに追い込むことに繋がる信条ですからね。「虐待されて育った子は虐待する親になる」と言い放って誰が救われるのか、と。
 遺伝にせよ環境にせよ、何らかが我々を決定しているのだとしてしまうとこの手の残酷さからは逃れられなくなるわけですが、どちらの決定論を正しいとせず、あくまで確率と傾向を見ながら各論で見ていくしかないんだろうなあという気がしています。結構胆力のいることではありますので、まずは気軽に「〇〇の遺伝子」と呼ぶ風潮からは一歩距離を取りたいところです。

 

 

 20年近く前の本で、科学的に「これは古い」といった点も多いのだとは思いますが、世の中の流れが「遺伝決定論」に傾きつつある今このタイミングで読めて良かったなあと思います。

 環境支配か遺伝子支配か明らかにしていく作業って、ほんとに人のためになるんでしょうかね。この先どこへ行き着くんでしょうか。

 ぼんやりとそんなことを考えてしまう読後でした。